雨の描写と言えば「言の葉の庭」である。

物語冒頭からこれでもかという緻密な雨の情景。ともすれば実写と見間違える路面の水たまり。
梅雨独特の、あの体にまとわりつくような湿気を含む鬱陶しさ。
しかし、遠景で見れば雨に濡れながらもどこか艶やかさを感じさせる公園やビル群。
その全てが、冒頭から怒濤のごとく、これでもかと「雨」を強調する。

その雨の雰囲気のまま、出会う靴職人を目指す高校生・タカオと謎めいた年上の女性・ユキノ。
雨の日本庭園というしっとりとした静けさの中、逢瀬を重ねる2人。
もう恋に落ちてもしょうがない。
いや、落ちないハズがない。
お膳立てからして轟く雷鳴とユキノからの唐突に詠まれる短歌である。

――雷神(なるかみ) の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

「万葉集」の柿本人麻呂が詠んだとされる一篇。
要するに「雨が降ったら 君はここにとどまってくれるだろうか」という恋の歌だ。
現在の二人を彷彿させる歌。もっとも、この時はタカオは歌の意味を知らない。
ユキノにしても別の意図をもって諳んじたわけだが、しかし本当のところ何故この歌を詠んだのか、ユキノ自身の心の奥底はどうだったのだろうか。

二人の逢瀬は「雨」というファクターがあってこそ成り立つ。ある意味、時限装置としての雨だ。
しかし、どんなに鬱陶しい梅雨だとて、いつかは晴れる。
二人にとっては「晴れてしまう」。
大方の人にとっては梅雨明けは待ち遠しいものだ。
しかしそんな梅雨明けというタイムリミットこそが、じわじわと二人を追いつめていく。
無情にも梅雨が明け、夏休みも終わり、そして学校でユキノの正体がわかってしまう。
さらに追い打ちをかけるかのごとく、ここを去ることを知り、タカオは最後に出会った公園でもう一度会いたいと思うのだ。

二人の思いが通じたのか、公園で出会う二人。
タカオが調べた返歌、

――雷神(なるかみ) の 少し響(とよ)みて 降らずとも 我は留らぬ 妹し留めば

「雨なんか降らなくてっも ここにとどまるよ」を返すわけだが、触れたくても触れられない、触れてはいけない、でも・・・というお互いを思いつつも、この令和になってもこの和歌に見る絶妙な距離感はきっと不変のものなのだろう。
「万葉集」の時代から、男女の機微の奥底の部分はそうそう変わらないのかもしれない。

二人を導くかのように、雷鳴が駆け抜け、あれほどに待ち望んだ雨が・・・二人の激情を代弁するかのように土砂降りになってやってくる。

そして――二人の「梅雨」がやっと明けるのだ。


曰く・・・もうくっついちゃえよ!と言いたくなること間違いなしである。

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