追悼 ジョン・レノン:12月8日に向けて徒然に


ジョンレノン
John Winston Lennon
October 9 1940 - December 8 1980


1980年12月9日火曜日の夕方、職場のつけっ放しのラジオからそのニュースが流れた。

聞き間違いかと思った。一緒に仕事をしていた相棒と、
「今のニュース、なんだって?」
「ジョンが・・・」
「マジか」

その後の全てのニュースで伝えられた。テレビには大勢の人達がキャンドルを持ってジョンの歌(「イマジン」だったか「平和を我等に(原題:Give Peace A Chance)」だったか・・・)を歌っている映像が写されていた。FENは一晩中ジョンの曲を流した。「マジ」だった。

正直に言おう。僕はジョンの熱烈なファンではなかった。レコードもCDも数枚づつしか所有していない。だけど、ラジオからいつもジョンの曲は流れていたし、友人の家に行けば誰かしらアルバムを持っていた。「今度のジョンはずいぶん怒ってるな」とか「自責思考に陥ってるな」とか感じたりしていた。

ジョンの歌は「喪失感」を感じる事がある。いろいろあったジョンの幼少のころからの人生経験からなのかもしれない。自分の想いを赤裸々に綴った歌を聴いていると胸が締め付けられる思いになる。

少年時代、横暴な権力や規則に反抗的だったジョンは不良じみた行動を繰り返していた。「愛」への強い渇望があったためだろうか。

その性格を良い方向に変えたのがヨーコだった。

積極的に政治運動や社会運動に参加し社会的弱者を支援、メッセージを歌に乗せて世界中に発信した。自分の気持ちに素直に行動している。それ故に敵視する者もいたに違いない。

1975年、アルバム『ロックン・ロール』をリリース後、ジョンは僕らの前から消えた。

まさか「主夫」になってショーンの世話をしているなんて、その頃の僕はまったく知らなかった。しかも、何度も日本に来ていたとは。

ある日、友人が言ってきた。
「今日、ジョンにそっくりな外人を見たよ。」
「へー、相当なファンなんだね。」

後から思えば本人だったのかもしれない。

ジョンの主夫の様子は1988年の映画『イマジン』で見ることができる。楽しそうにショーンをお風呂に入れていた。レコーディングやインタビューのスケジュールに縛られることもなく幸せな日々を送っていたようで、映画を見ながら嬉しくなってしまった。もう、本人はいないのに。

1980年11月、『ダブル・ファンタジー』リリース。日本は12月にリリースされた。僕はいち早くFMでオンエアされた音源をエアチェックしたカセットを聞いていた。世界中がジョンのカムバックに興奮しているようだった。

ジョンの新しいレコードはいつになく自信に満ち溢れ力強い。波乱に満ちた70年代を乗り越え、今再び歩き始めるのだという意志を感じた。5年間の事もさりげなく歌われている。 そんな歓喜の日々も束の間、あの日がやってくる。

生前のインタビューを読むとジョンは音楽活動に意欲的でワールドツアーもやりたいと発言している。ジョンのために武道館が3日間押さえられていたという噂もあった。もし実現していたら僕は行っていたのだろうか。ネットのない時代になんとかチケットを手に入れ武道館に向かったのだろうか。

2016年公開の映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』のジョンはかっこよかった。仁王立ちでギターをかき鳴らし、ちょっとハスキーな声でシャウトし、バンドをぐいぐい引っ張っていく。ポール、ジョージ、リンゴの3人との演奏を心から楽しんでいるようだった。4人は頂点に向かって疾走していた。

ジョンはLove & Peace、そしてロックの人、さらに良きパパだった。

人々が戦争や暴力を忘れて、ベッドで愛や平和について語る世界はいつになったら来るのだろうか。

今日も僕はジョンの歌を聞いて生きていく。

text:チャーリー


12月8日に聴きたいジョン・レノン関連作品


追悼 ダイムバッグ・ダレル:勇気と情熱と感動をありがとう



Darrell Lance Abbott
August 20 1966 - December 8 2004


あれからもう十数年も経つが、あの日ぼくの胸にぽっかりと空いた大きな穴は、いまだ塞がれることなく相変わらず深く暗い闇をぼんやりとのぞかせている。時の流れがいくらか癒してくれたとはいえ、この痛みが完全に消え去ってしまうことは、この先もおそらくないだろうと思う。

2004年12月9日、午前。あのニュースは、何の前触れもなく、唐突に、残酷にやって来た。

なぜ彼があんな目に遭わなければいけなかったのか。どうしてあんなひどい最期を迎えなければならなかったのか。とあるスポーツ新聞の記事は、センセーショナルな見出しの下、あの悲劇的な事件のあらましを淡々と伝えていた。すぐには事態を飲み込めず何度も何度も記事を読み返してみたが、そこでわかったのはただ、ぼくのヒーローが、ライヴの真っ最中、ステージ上で理不尽な怒りの凶弾に斃れたということだけだった・・・。

改めて考えてみれば、ダイムバッグ・ダレル(古くからのファンには“ダイアモンド・ダレル”の方がお馴染みかもしれない)が世界を相手に暴れ回った期間は、それほど長くはなかった。

パンテラの名前を一気にワールドワイドに轟かせた『カウボーイズ・フロム・ヘル』のリリースが1990年だから、メジャー・フィールドでの活動期間はほんの14年ほど。この間に発表されたアルバムをひととおり数えても、両手にも満たない。だが、彼はこの限られたキャリアの間ずっと、シーンでも指折りのトップ・ギタリストであり続けた。メタル・シーン広しと言えど、あれほどの才能はそうそう見付けられるものではない。

実兄ヴィニー・ポール(ドラム)との鉄壁のコンビネーションから生み出されるウルトラ・ヘヴィなパワー・グルーヴ、目も醒める閃光のような速弾き、胸を締め付ける繊細な哀感に満ちたフレージング。そうしたギタリストとしての超個性は、情感あふれるブルージーなチョーキングや未曾有の革新的なトリック・プレイ、微妙にピッチを下げた特異なチューニング、聴けばすぐにそれとわかる特徴的なトーンや機材マニアらしい独創的なセッティングといった細かいところにまで徹底して行き渡っていた。そしてそれらは、他の誰とも違う、まばゆいほど強烈で叙情的で感情を揺さぶられずにはおかない図抜けて特別なものだった。いうなれば彼は、天性のギター・ヒーローだったのだ。

だからこそダイムは、いつ、どこで、どんな場面で弾いてもひときわ鮮やかに際立っていた。

パンテラやダメージプランのアルバムはもちろんだが、彼がゲスト参加した楽曲、例えばアンスラックスの「キング・サイズ」や「ライディング・ショットガン」(ともに『ストンプ442』収録)、「インサイド・アウト」や「ボーン・アゲイン・イディオット」(ともに『ヴォリューム8:スレット・イズ・リアル!』収録)、キング・ダイアモンドの「ヴードゥー」(『ヴードゥー』収録)、ニッケルバックの「サイド・オブ・ア・ブレット」(『オール・ザ・ライト・リーズンズ』収録)などを聴いてみてもはっきりとわかる。彼が指を走らせればそこには必ず、紛うことなきダイムバッグ・ダレルの刻印が捺されるのだ。

そのなんと活き活きとして荒々しく情熱的なこと・・・。

気が付けば、ぼくはもうとっくに彼の享年を追い越してしまっている。が、パンテラやダメージプランの音楽を耳にする時、気持ちはいつもあの頃へと瞬時に引き戻されてしまう。

多感で純粋で反抗的だったあの頃、初めてパンテラのアルバムを手に入れたあの頃、五反田ゆうぽうとホールで彼らの初来日公演を観て震えまくったあの頃へと――。

ぼくの胸にはいまだぽっかりと大きな穴が空いたままだが、それはそのままでいい。この痛みも死ぬまでなくならなくて構わない。音楽を通して彼にたっぷり分けてもらった、あの頃の勇気や情熱や感動を、これからも決して忘れてしまいたくはないから。

text:東風平

12月8日に聴きたいダイムバッグ・ダレル関連作品