第1作『戦慄の王女』~ 第5作『華麗なるレース』(1971年~1977年)

スマイルというバンドで活動を共にしていたブライアン・メイ(ギター)とロジャー・テイラー(ドラムス)の元に、彼らのファンだったフレディ・マーキュリー(ヴォーカル、ピアノ)、数人のプレイヤーを試した後に現われたジョン・ディーコン(ベース)が加わり、クイーンが本格的にライヴ活動を開始したのは 1971年夏のこと。

運命の出会いを果たした4人はすぐさまオリジナル曲のレコーディングにも取り掛かるが、不幸にも、それからしばらくの間、バンドは不遇の時代を強いられることとなる。

しかし、そんな状況にもやがて変化は訪れた。1973年春、英『EMI』とサインを交わし念願のレコード契約を手に入れた4人は、同年7月、名手ロイ・トーマス・ベイカーを共同プロデューサーに迎えての1stアルバム『戦慄の王女(原題:QUEEN)』を満を持してリリースする。

ここでレッド・ツェッペリンザ・フーといった母国の先達からの影響を感じさせるハード・ロック路線を明らかにしてみせたバンドは、翌年春には早くも2ndアルバム『クイーン II(原題:QUEEN II)』を発表、この作品を引っさげ、モット・ザ・フープルの前座として初めての全米ツアーにも乗り出していく。

その最中、ブライアンが肝炎を発症してしまったため、あえなく海外遠征を中断して帰国の途についたクイーンではあったが、後に代表作となる『クイーン II』で示された楽曲の高い完成度は、確実にファン層を拡大させていた。

それを証明するかのごとく、1974年11月にリリースされた3rdアルバム『シアー・ハート・アタック(原題:SHEER HEART ATTACK)』は、先行シングル・カットされた「キラー・クイーン」のヒットにも牽引されて全英チャート過去最高の2位にまで上昇、フレディの喉の不調により数公演がキャンセルとなったものの、ヘッドライナーとして行った翌年の北米ツアーでも各地で大喝采を浴びることとなる。

成田空港に出迎えのファンが殺到したことでも語り草となっている初来日公演が実現したのも、まさにこの年の春のこと。クイーンはまさに時代の追い風に乗っていたと言っていいだろう。

同年11月に発表された4thアルバム『オペラ座の夜(原題:A NIGHT AT THE OPERA)』で、彼らは遂に頂点に立つ。ここからの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」に続いてアルバムでも初めての全英1位を獲得、50週にわたって作品をチャートにランクインさせ続けたバンドの勢いは、もはや誰にも止められるものではなかった。

約1ヶ月半で21都市を廻った全米ツアーに引き続き、1976年3月、わずか11ヵ月のインターヴァルで再び日本の地に降り立った4人は、仙台や福岡でもファンを大いに沸かせ、休む間もなく来るべき作品のレコーディングに突入する。そしてその成果は、早くも同年末、5thアルバム『華麗なるレース(原題:A DAY AT THE RACES)』として見事に結実したのだった。

「愛にすべてを」「タイ・ユア・マザー・ダウン」「手をとりあって」などのシングル・ヒットにも後押しされ、発表後まもなく全英1位を獲得、24週もの間チャートにランクインし続けた『華麗なるレース』の成功を受け、1977年初夏、クイーンは数ヶ月間にも及んだ大規模なワールド・ツアーを大成功のうちに終了させる。

第6作『世界に捧ぐ』~第9作『ホット・スペース』(1977年~1982年)

アメリカ/カナダ、イギリス/ヨーロッパをくまなく廻り、各地のファンを大いに熱狂させたバンドは、そのままほとんど休む間もなく次なる作品のレコーディングを開始、同年10月には早くも通算6枚目となるアルバム『世界に捧ぐ(原題:NEWS OF THE WORLD)』を送り出す。

それまでに確立していた“クイーン・サウンド”からいささか趣向を変え、ゴージャスというよりはシンプルな作風となった『世界に捧ぐ』からも「伝説のチャンピオン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「永遠の翼」といったヒット・シングルを立て続けに量産し、支持基盤をさらに磐石なものとしたバンドは、追ってまたしても大西洋を挟んでのワールド・ツアーを精力的にこなし、意気揚がるまま第7作の制作に突入する。

旧知のロイ・トーマス・ベイカーをプロデューサーに起用してほどなく完成したアルバムは、シンプルに『ジャズ(原題:JAZZ)』とタイトルされ、1978年末にリリース。

ここからカットされた「ファット・ボトムド・ガールズ」「バイシクル・レース」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」などを見れば、あるいは80年代最初の発表作となった8thアルバム『ザ・ゲーム(原題:THE GAME)』からの「愛という名の欲望」「セイヴ・ミー」「プレイ・ザ・ゲーム」などを見れば明らかなとおり、当時のクイーンは音楽的にも商業的にもまさしく絶頂を迎えていた。

後に全キャリアを通じての代表曲と目されることになる名曲群がこの頃に多数発表されていたこと、そしてそのどれもが(ディスコ・ブームに乗ってスマッシュ・ヒットした「地獄へ道づれ」であっても!)他の誰にもマネのできないバラエティ豊かな“クイーン・サウンド”に貫かれていたこともまた、破竹の快進撃を続ける当時の彼らの充実ぶりを物語っていると言っていいだろう。

ある意味“禁じ手”であったシンセサイザーの本格的な導入が図られたのも、彼らのクリエイティヴな欲求がそれほどまでに高まっていたことを裏付ける確かな証拠と言える。事実、同名映画のサウンドトラックとして発表された次作『フラッシュ・ゴードン(原題:FLASH GORDON)』も、そんなバンドのチャレンジ精神を存分に感じさせる意欲的な作品であった。が、こうした大胆な方向転換が、以降ファンの間に激しい賛否両論を巻き起こしていくことにもなってしまう。

1979年春以来およそ2年ぶりとなる四度目の来日公演を1981年2月に行った後、バンドは地球をほぼ半周し、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラなどを廻る初の南米大陸ツアーを敢行、思わぬトラブルに巻き込まれて終盤の数公演をキャンセルしたものの、同年秋には親交のあったデヴィッド・ボウイとの共演曲「アンダー・プレッシャー」をリリースし、当然のごとく全英NO.1を獲得する。

しかし、この曲を収める9枚目のオリジナル・アルバム『ホット・スペース(原題:HOT SPACE)』はそうはいかなかった。バンド最大のヒット・シングルとなった「地獄へ道づれ」の成功に引っ張られ、作品はダンス/ブラック・ミュージックへの傾倒ぶりが大々的に反映されたスタイルに仕上がっていたのだ。

これが批評家だけでなくファンの間にも大きな波紋を呼んだことで、まもなくクイーンはバンドの進むべき方向性について根本的な再考を迫られることになる。

シンセ・ベースを使った「ボディ・ランゲージ」、ホーン・セクションを導入した「ステイング・パワー」、ブライアン作曲のロック・バラード「ラス・パラブラス・デ・アモール(愛の言葉)」など、カットされたシングルはそれなりに話題となったものの、商業的な意味では、『ホット・スペース』はあまり振るうところがなかった。

これが1つの要因とも言われているが、ここに来て明らかに失速してしまったクイーンは、しがらみをリセットするべく、ほどなくバンドとしての活動を一時的に休止させる決断を下す。

第11作『ザ・ワークス』~第15作『メイド・イン・ヘヴン』(1982年~1995年)

およそ1年半にわたった充電期間をそれぞれソロ活動などに費やし心機一転、1984年初頭より満を持して活動を再開させた4人は、手始めにシングル「RADIO GA GA」(レディ・ガガのステージネームがこの曲名から採られたのは有名な話)を発表、続いて2月には通算11枚目となるオリジナル・アルバム『ザ・ワークス(原題:THE WORKS)』をリリース。

前作への反省を踏まえ、大幅に“クイーンらしさ”を取り戻したこの作品からは、今なお“自由への賛歌”として第三世界で熱烈に支持されている「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」や「永遠の誓い」などのヒット・シングルも生まれ、セールスやチャート・アクションの面でも大いに復調を印象付けることとなる。

2日間で30万人を動員したブラジル『ロック・イン・リオ』フェスティヴァルへのヘッドライナー出演をはじめ、五度目の来日公演を含むワールド・ツアーでも復活を歓迎するファンから大きな喝采を浴びたクイーンは、翌1986年6月に発表した12作目『カインド・オブ・マジック(原題:A KIND OF MAGIC)』で、アルバムとしては『ザ・ゲーム』以来となる全英NO.1を獲得、キャリア何度目かの絶頂を謳歌する・・・はずだった。

が、実はこの頃すでに、バンド内部ではメンバー間の対立が修復不可能なところまで深刻化してしまっていたらしい。後に語られたところによると、当時の状況は「1985年7月の『ライヴ・エイド』出演がなければ解散していたかもしれない」ほどだったそうだ。

かくいうわけで、『カインド・オブ・マジック』発表に伴うヨーロッパ・ツアーではのべ100万人を超える驚異的な観客動員を記録していたにもかかわらず、以降クイーンがコンサート活動を行わなくなってしまったのは当然の結果だった。

しかしそれでも、各メンバーが思い思いにソロ・キャリアを追求し、しかるべき時が訪れたら全員で集まるという緩やかな関係は保たれ、彼らの活動はさらに未来へと向かっていく。

1989年5月発表の『ザ・ミラクル(原題:THE MIRACLE)』、1991年発表の『イニュエンドゥ(原題:Innuendo)』は、まさにそうした環境の中で制作された作品だったが、「アイ・ウォント・イット・オール」「ブレイクスルー」「イニュエンドゥ」など、クイーンの名の下に練り上げられた楽曲たちの完成度はいずれも粒ぞろい。ツアーを行わずとも全英アルバム・チャート1位を連取してしまう彼らの人気と実力は、このまま続いていくようにも見えた。

しかし、1991年11月24日、スポークスマンを通じて衝撃的なコメントが発表されてまもなく、フレディがイギリスの自宅から天国へと旅立ってしまう。かねてから噂されていたとおり、HIV感染によって引き起こされた肺炎によるものだった。享年45。

生前に録音されていたフレディの肉声に3人のメンバーが演奏を付け加え、別離より4年の歳月を経て発表となったラスト・アルバム『メイド・イン・ヘヴン(原題:MADE IN HEAVEN)』は、現在までに全世界累計2,000万枚以上ものセールスを記録しているという。

長らくファンの愛したブライアン、ロジャー、ジョン、そしてフレディの4人から成る稀代の女王に謁見の機会を賜ることはもう、残念ながらできなくなってしまった。だが、女王の君臨したあの輝かしい時代を思うままに感じることはできる。クイーンの送り出してきた素晴らしい遺産の数々は、今も世界中すべてのファンひとりひとりの心の中で、変わることなくまばゆい光を放ち続けているのだから。

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