ウェスト・コースト・ジャズの誕生

1929年オクラホマ州で生まれ、その後引っ越したカリフォルニア州で少年時代を過ごす。ある日父親からトロンボーンをプレゼントされたが子供には大きすぎトランペットに持ち替えた。

16歳で入隊、軍楽団に配属され腕を磨く。そこで聴いたレコードでデイジー・ガレスビーの強烈なビバップに出会い衝撃を受ける。除隊後、学校で音楽理論を学びジャズミュージシャンとして活動を始め、ロスのジャズクラブでセッションを重ねた。

1952年、23歳の時、ツアーでロスアンジェルスに訪れていたチャーリー・パーカーのオーディションに受かりバンドに参加、レコーディングも経験した。これがチェットのジャズ界への本格的なデビューとなった。パーカーに付いてニューヨークには行かず西海岸に留まることにした。それがバリトン・サックス奏者にジェリー・マリガンとの出会いに繋がる。

マリガンとバンドを結成、ピアノレスなユニークな編成のバンドのクールで制御の効いた音楽はウェスト・コースト・ジャズと呼ばれ、新しいトレンドを生み出した。
マリガンバンド解散後、自分のバンドを結成。1953年に自己のバンドで初のレコーディングをする。

モテモテのイケメン・トランペッター

チェットのトランペーッターとしての評価は高くなり、アメリカジャズ誌の人気投票ではマイルスを抜き1位になったこともある。激しくブローすることなく、ソフトでメランコリックで詩情溢れるプレイが彼のトランペットの魅力である。加えてジェームス・ディーンに似たルックスは女性ファンを増やすことになり、ジャズクラブに若い女性が大勢詰め掛けるようになった。

今でこそシンガーとしても認知されているが、当時の歌はあくまでも余技であった。しかしヴォーカル曲のシングルをリリースすると大ヒットし、人気投票ではナット・キング・コールと同得点を取るほどであった。

世紀の名盤"Chet Baker Sings"がリリースされた。クールなトランペットとロマンチックなヴォーカルをフィーチャーした本作品は大ヒット。彼の代表作となる。その、アンニュイで中性的で甘く囁くようなヴォーカルに女の子達はさらにメロメロになった。

チェットのヴォーカルはトランペットのスタイルをそのまま置き換えたように聞こえる。トランペットのように歌い、歌うようにトランペットを吹いた。

チェットのヴォーカルスタイルに影響を受けたジョアン・ジルベルトがあの囁くようなボサノヴァ唱法を編み出したと言われている。

1955年、彼は映画にも初出演。同じ年、初の8ヶ月に及ぶヨーロッパツアーに出る。

ドラッグ中毒と転落

この頃の多くのジャズマンがそうであったようにチェットもドラッグに溺れていく。それでも作品は次々とリリースされた。

ドラッグ問題はさらに深刻になり、1959年ついに逮捕されてしまう。一度は治療のため療養施設に入るがうまく行かず、アメリカから逃げるようにヨーロッパに移住。しかし、イタリアでも逮捕され16ヶ月間拘留された。

出所し演奏活動を再開するも、イタリアをはじめフランスやイギリスでも国外追放となり、1964年アメリカに帰ってくる。

1966年夏のある日、ドラッグによるトラブルに巻き込まれ顔を殴られたチェットはトランペッターの命とも言える前歯を折られてしまう。多くの物を失ってきたチェットはとうとう音楽をも失ってしまった。

その後のチェットは生活保護を受けたりガソリンスタンドで働いたりして辛うじて生活をしていた。

チェット・ベイカー フォーエヴァー・ブルー・コレクション

映画の公開を記念してユニバーサルミュージックから初期作品10枚を発売。

カムバック、再びヨーロッパへ

その状況を救ったのはかつてのライバルであり友人のデイジー・ガレスビーだった。デイジーはチェットのライブ実現のためニューヨークのジャズクラブと交渉し準備に走り回った。チェットは義歯を入手し、1973年ついにジャズクラブ出演を成し遂げた。

ジェリー・マリガンとのリユニオンも果たし、若いジャズマンと制作した新作もリリース。チェットはジャズ・シーンに帰ってきた。

1970年代半ば、チェットは再びヨーロッパに移住。コンサートやレコーディング以外でアメリカに帰ってくることはなかった。

ヨーロッパに行ってからのチェットは多作である。フランス、イタリア、ドイツ、デンマーク、イギリス、ベルギーなどヨーロッパ各国で録音し、レーベルもマイナーからメジャーまで無作為に手当たり次第という感じだ。そのほとんどが単発契約。すぐにクスリを買う金が欲しかったためである。ドラッグとの関係は断ち切れていなかった。

晩年のチェットはよく言えば「枯れている」だが、はっきり言って「衰退」している。演奏も歌も若いときのようなキレや輝きはすでにない。「失ってきた人生」の果てに残された音楽、悲しみに包まれながらも幸福を感じる音楽。それが晩年のチェットの魅力ではないだろうか。

80年代に入ってからチェットの再評価が高まった。それはジャズサイドからではなく主にロック、パンク、ニューウェイブなどのポップサイドからのものだった。

1983年、エルヴィス・コステロはアルバム"Punch The Clock"収録の"Shipbuilding"のレコーデングにチェットを招いている。後にチェットはコステロの"Almost Blue"をカバーしている。

フランスのシンガー、Lizzy Mercier Desclouxはチェットをゲストとして向かえたアルバム"One for the Soul"を1985年にリリースしている。

1986年3月、待望の初来日が実現。2つの意味で「奇跡の来日」と言われた。ひとつは、著名なジャズマンのほとんどが来日公演を行っており、チェットは日本には来ないだろうと思われていたからだ。もう一つはジャズ界一のジャンキーが日本国内に入れるのだろうかという噂があった。

ステージに現れたチェットはまだ50代とは思えないような老人だった。

昔からのファンである年配の方から髪を染めたパンクスまであらゆる年齢層の観客が見守る中、静かに演奏は続く。優しい音色は「あの事件」以降手に入れた奏法によるものだ。

翌年1987年にもチェットは日本にやってきた。公演の様子は収録され映像作品・音楽作品としてリリースされている。

1986年、フォトグラファーのブルース・ウェーバーはチェットのドキュメンタリー映画"Let's Get Lost"を録りはじめる。全編モノクロで撮られた映像は晩年のチェットを優しい眼差しで捉えている。想い出を語りながらヨーロッパの街を歩いたり、レコーディングやライブ風景の間に若き日のポートレイトや元妻や愛人、友人などへのインタビューが差し込まれている。皆、チェットを酷く言っているがその裏側には愛があるようにも思えた。

意欲的にコンサート活動、レコーディング活動を続けたチェットだったが、1988年5月13日アムステルダムのホテルの2階から転落し死亡した。原因は不明のままだが部屋にはヘロインが残されていたという。

映画"Let's Get Lost"を完成させたブルース・ウェーバーは試写会の会場で主人公の訃報を受け取ることとなった。

3度の結婚、恋人は数知れず、酒とドラッグに浸り、周囲の人々を不幸にする。ひとりでは何もできないどうしようもないダメ男。そんな彼が奏でる音楽は世界中の人を魅了する美しい音楽。悪魔と天使が同居しているような人であった。

カムバック後のオススメ4枚

カムバック期1974年の録音。チェットの哀愁に満ちた音色のトランペットがロン・カーター、ボブ・ジェームス、スティーブ・ガッド、ポール・デスモンドらCTIオールスターズと呼べそうなミュージシャン達の好サポートによって活き活きと響く。ドン・セベスキーのストリングスも素晴らしい。こちらを代表作に挙げるファンも多い。

2度目の来日公演、1987年6月14日人見記念講堂で収録。この日のチェットは好調だ。テクニカルなプレイはないもののスムーズなソロを吹いている。メンバー間のアドリブプレイも良い。映画"Let's Get Lost"からのナンバーも演奏している。

死亡する2週間前1988年4月28日ドイツでのコンサートを収録したアルバム。最後の録音と言われている。ジャズ・クインテットに加えてNDR ビッグバンド、ハノーヴァー・ラジオ・オーケストラがバックアップ。チェットのトランペットに大編成の壮大でドラマチックな演奏が寄り添う。この大掛かりなステージのリハーサルにチェットは現れなかったそうだ。それなのにこの完成度。

ブルース・ウェーバーの映画"Let's Get Lost"のために録音した作品。これが最後のスタジオ録音になった。12曲中11曲がヴォーカル入り。30年後の"Chet Baker Sings"と言えるかもしれない。ほぼスローからミドルテンポの曲。悲しみというよりそれを突き抜けた美しささえ感じてしまう。エルビス・コステロの"Almost Blue"を収録。

映画「ブルーに生まれついて」

イーサン・ホーク主演のチェット・ベイカーの伝記映画。映画は60年代イタリアで留置されたシーンから50年代の人気絶頂時代の回想シーンを挟み、暴力事件、どん底生活から復活するまでを描いている。実際のエピソードを散りばめ、ジェーンという美しい恋人を登場させることでオリジナルのラブストーリーに仕上がっている。
「ブルーに生まれついて」オフィシャル・サイト

オリジナル・サウンド・トラック

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