『ホワイト・アルバム』は傑作なのか?

『ホワイト・アルバム』はスタンダードヴォーカルナンバーから前衛まで幅広い音楽が収録された2枚組の大作。このアルバムを巡って音楽ファンや評論家のあいだである論争が起きる。はたして野心的で多様な音楽が詰め込まれた最高傑作なのか、寄せ集めのとっ散らかった問題作なのか。

『ペパー軍曹のバンド』からの脱退、エプスタインの死

1967年4月『サージェント・ペパーズ』のリリース前にもかかわらず映画『マジカル・ミステリー・ツアー』のためのプロジェクト始動。続いてアニメ『イエロー・サブマリン』のためのレコーディングも始まる。2つのプロジェクトはほぼ同時に進行していた。6月に出演予定の世界中継番組「アワ・ワールド」のための楽曲「愛こそすべて」もこのセッションで制作された。

8月、デビュー前から4人を育て上げてきたマネージャーのブライアン・エプスタインが急死。コンサート活動の休止以降仕事は減ってしまったが、それでもビートルズの行くべき道を一番知っていた男である。4人のショックは計り知れない。話し合いの末4人はプロジェクト続行を決め、エプスタイン不在に一番危機感を持ったポールが主導した。

『ペパー軍曹のバンド』を脱退した4人は元のロックバンドに戻ることにしたようだ。

▲バック・イン・ザ・U.S.S.R.-2018Mix

ビートルズ、インドへ行く

ジョージの提案でマハリシの講義を聞いた4人は超越瞑想修行のために寺院に招待される。68年2月、「レディ・マドンナ」を置き土産にインドのリシーケスに旅立った。それぞれのパートナーの他、ドノヴァン(シンガー)、マイク・ラヴ(ビーチ・ボーイズ)、女優のミア・ファローと妹のプルーデンス、ポール・ホーン(ジャズ・フルート奏者、ペット・サウンズにも参加)、ジェニー・ボイド(モデル、パティの妹)、マル・エヴァンス(ビートルズのローディ、アシスタント)らも修行のため滞在した。

修行の日々の中で4人は新作のための曲を多く作った。しかし、マハリシへの失望などがあり予定よりも早く帰国。それでも有意義な面もあった。瞑想やベジタリアンな生活、北インドの雄大な景色。熱狂的なファンもマスコミもいない。彼らの心を自由にした穏やかな環境での作曲活動は意味深いものになった。世界中の人々がインド文化に興味を持つきっかけにもなった。

イーシャー・デモ

68年5月、最後までインドにいたジョージの帰国を待ち、4人はサリー州イーシャーにあるジョージの自宅に集まりデモテープを作った。ビートルズがレコーディング前に全員でデモを録るのは珍しい事だ。通称「イーシャー・デモ」と呼ばれている。

「ポリシーンパン」「ミーン・ミスター・マスタード」が既に出来ていたことがわかる。デモとは言え完成度が高くアンプラグドと言ってもよさそうだ。

ジョージ作の「ノット・ギルティ」「サークルズ」は後のソロアルバムに収録された。「サワー・ミルク・シー」はジョージがプロデュースをしていたジャッキー・ロマックスに提供された。ポールの「ジャンク」は1stソロに収録。ジョンの「Child of Univerce」はアルバム『イマジン』収録の「ジェラス・ガイ」へと改作された。

4人共楽しそうで少なくともこの時点ではロック・バンドをやろうという意気込みが伝わってくるセッションである。

▲バック・イン・ザ・U.S.S.R.-イーシャー・デモ

アップルの設立

68年5月には自分達の会社「アップル(Apple Corp.)」の設立を発表した。 エプスタイン亡き後、自分達のマネージメントや財政管理を自分達でやろうという事で設立した。事業は家電、映画、レコード、出版、アップル・ブティックの5部門だった。しかし彼らはやはりミュージシャン、経営を巡って後あと深刻な問題が発生する。

レコーディング

68年5月30日、ジョンの「レボリューション」からセッションがスタート。 『サージェント・ペパーズ』とは違うものにしようという想いからギターをメインにした比較的シンプルなサウンド。サイケデリアはほとんど感じられない。それでも何度も録り直し、エフェクトをかけオーバーダブを重ねるというサージェント・ペパーズ的手法も使っている。ベーシック・トラックは4人で録り、その後作曲者がオーバーダブなどをして仕上げるというのが基本的な流れになっている。

しかし、レコーディング中にもかかわらず、誰かが旅行に出かけたり、アップル所属のシンガーのプロデュースのために別のスタジオに行ったりと自由に(勝手に)メンバーは出入りしていた。その間もセッションは続けられその場に居合わせた(あるいは必要な)メンバーのみで作業を行った。結果様々なスタイルの楽曲が作られていく。

そしてとうとう、プレイに対してのポールの発言が原因でリンゴがスタジオを出て行ってしまう。約2週間後には戻ってきたがその間に録られた「バック・イン・ザ・USSR」「ディア・プルーデンス」はポールがドラムを叩いている。勝手な想像だがリンゴが居たとしてもポールはドラムを叩いたのではと思う。

「ヘイ・ジュード」は8チャンネルレコーダーがあるトライデントスタジオに出向いての録音。初めての8チャンネルでのレコーディングである。8月に「レボリューション」とのカップリングでリリースされた。アップル・レコードからリリースされる初めての作品でもあった。
9月にはEMIスタジオにも8チャンネルレコーダーが導入された。リダクション(ピンポン録音)の低減やオーバーダブの利便性があがり、音質も向上することができた。それは個人作業がやりやすくなる一面もあり、なおいっそう作曲者の個性が表れやすくなった。

ポールはメロディ・メイカーとしての資質にさらに磨きをかけている。どんな事も物語にしてしまうのもポールらしい。オールドタイムなポピュラーミュージックのスタイルを踏襲しているものが多いことに気付く。

ジョンは怒り、失望、皮肉などの感情をストレートに表したヘビーな作品が目立つ。その楽曲からは類まれなロック・ヴォーカリストであることを改めて感じさせる。

音楽家として大きく成長したジョージ。残念ながらここでもレノン=マッカトニーの影に隠れて4曲のみの収録となった。しかし、このアルバムからは「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」という名曲が生まれた。解散後、誰よりも早く発表したソロ・アルバムは3枚組という大作、彼の才能は一気に開花する。

リンゴのオリジナル「ドント・パス・ミー・バイ」が初めて収録された。ほのぼのとしたカントリースタイルの楽曲はリンゴらしい。さらにアルバムのラストに収録されたジョン作の「グッドナイト」。リンゴは決してうまいシンガーではないが、その歌声は優しく味わい深くアルバムの最後に相応しいナンバーになった。

▲グラス・オニオン-2018Mix

初期のビートルズはジョンとポールの個性の融合が魅力だった。二人の中でビートルズ・サウンズはこうなのだという漠然とした基準があり、それに向けて作曲したのではないか。マーティンとエプスタインの考えもあったろう。なによりもビートルズはライブバンドだったのだ。

月日が経って彼らは人間的にも音楽家としても成長した。60年代という激動の時代から影響や刺激を受けたはずだ。そうした環境のなかで自己表現の仕方が変わっていってもおかしくはない。4人はそれぞれの表現方法を認め合った上でこのアルバムを制作したのかもしれない。くり返しこのアルバムを聴いていると意図的にソロ作の集合ような作品を作ったのではないかと思わせる。

ジョージ・マーティンは1枚のアルバムにした方がよいと主張したが4人は自分達の意見を通し2枚組として制作された。もし1枚だったら散漫さが強調されていたのではないか。2枚組にすることによって作品集的な雰囲気、曲間を短くすることによりコラージュ的な感触になった。付属のポスターはヴィジュアルで表現しているように見える。

ある日、レボルバー以降サウンドの要だったエンジニアの ジェフ・エメリックがポールのマーティンに対する態度の酷さに耐えられなくなり離脱してしまう。ケン・スコットが後を継いだ。

レコーディングが長期化し他にも仕事を抱えていたジョージ・マーティンは体力的な問題もあり休暇を取った。一説には4人はマーティンの指示にあまり従わずセルプロデュース的な一面もあったらしい。マーティンの休暇中は21歳の部下クリス・トーマスがプロデュースを担当した。後にセックス・ピストルズ、ロキシー・ミュージック、サディスティック・ミカ・バンドなどを手掛け、名プロデューサーになっていく男だ。

そうした出来事が『ホワイト・アルバム』が多彩な(あるいは散漫な)作品になった一因なのかもしれない。

1968年11月22日、アップル・レコードから初のビートルズのアルバム『The Beatles(ホワイト・アルバム)』がリリースされイギリス・アメリカで初登場1位になった。

翌年の1月2日、ビートルズはあの悪名高きゲットバック・セッションに突入することになる。

▲ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス-2018Mix

アルバム・ジャケット

白地に「The Beatles」とだけ入ったジャケットは『サージェント・ペパーズ』とは対照的なデザインになった。デザインしたのはポップ・アートの草分け、リチャード・ハミルトン。カラフルで華やかなサイケなデザインが溢れる時代でかなり異色だったであろう。

デザイン案は他にもいくつかあり、そのうちの一つがスコットランド出身のイラストレーター、ジョン・パトリック・バーンが描いたポップな4人のイラスト。当初予定していたタイトル『A Doll’s House』に合わせて4人が人形になっている。この作品は1980年リリースのコンピレーション「ザ・ビートルズ・バラード・ベスト20」のジャケットに採用されている。

The Beatles Ballad 20
『ザ・ビートルズ・バラード・ベスト20』
1980年10月20日リリースのバラードコンピレーション。
なぜか「イエスタデイ」と「ノルウェーの森」が左右逆になっている。「アクロス・ザ・ユニバース」はバード・ヴァージョンを収録。

グループ外活動

1968年1月、ジョージはジェーン・バーキン主演(役名はペニーレーン)映画のサウンドトラック『不思議の壁』をボンベイとロンドンでレコーディング、68年11月にリリース。彼にとって最初のソロアルバムでもある。68年5月20日、ジョンはヨーコと共に前衛作品『トゥー・ヴァージンズ』を制作、69年には自己のバンド、プラスティック・オノ・バンドを開始している。67年12月、リンゴはエロティックコメディ映画『キャンディ』の撮影に参加、68年に公開されている。ジョン以外は依頼されたものと思われるがそれぞれの解散後を予見されるような活動である。

1968年

ロバート・ケネディ、マーティン・ルーサー・キングの暗殺。ベトナム戦争の泥沼化。反戦運動、学生運動、公民権運動が広がっていった。前年のピースフルなサマー・オブ・ラブと打って変わってピリピリとした緊張感のある空気に世界中が包まれていく。革新性、メッセージ性を持っているロック・ミュージックは大きな支持を得た。だが、そうした世相を反映した作品がリリースされるのはもう少し後の事である。

サイケデリック・ムーブメントに影響されつつロックは拡大を続けた。ゾンビーズ、プリティ・シングスはアフター・サージェント・ペッパーズというべきサイケ・ポップな傑作を発表した。ピンク・フロイド、ソフトマシーン、ムーディ・ブルースはサイケデリックとプログレッシブ・ロックを繋げた。ジェフ・ベック、ジミ・ヘンドリックスの作品からはハードロック時代の萌芽を感じさせる。イギリスではホワイト・ブルース・ブームが起こり、フリートウッド・マック、サヴォイ・ブラウン、チキンシャックの名バンドが登場した。一方、その反動のようにブルース/カントリー/R&B等に根差したシンプルなルーツミュージック回帰の動きがあり、ザ・バンドのデビュー作、バーズの「ロデオの恋人」がリリースされた。レッド・ツエッペリン、イエス、キング・クリムゾンが始動している。

マイルス・デイビスはエレクトリック楽器・8ビートを取り入れジャズからロック/ファンクへの接近を試みた。スライ・ストーンはファンクとロックの垣根を取り除いた。

ロックを含んだカルチャー全体が拡大と変革、試行錯誤を繰り返した時代、来たる70年代に向けて誰もが疾走していた。

2018年の『ホワイト・アルバム』

昨年のサージェント・ペパース50周年盤と同じくジャイルズ・マーティンとサム・オケルの二人がリミックスを担当している。音像が『サージェント・ペパーズ』とはかなり違うので細心の注意を払う必要があったと語っている。 定位を修正しノイズを取り除き広がりと奥行きが増した音像は4人の制作志向がより明確になった。よりロックン・ロールに、よりセンシティヴに、よりへヴィーに音楽がダイナミックにエネルギッシュに増幅されている。

ニューエディションの登場で再び議論を呼ぶのであろうか。溢れる才能を注ぎ込みクリエイトした4人の音楽が詰まった大傑作であることは間違いない。バンド名を冠したタイトルにもその想いが込められているのではないだろうか。1968年のビートルズの全てがここにある。

▲ジャイルズ・マーティンとサム・オケルの解説

fab four

ビートルズの音楽制作に多大な貢献をしたエンジニアのジェフ・エメリック氏が2018年10月2日に逝去されました。氏はビートルズ以外にも素晴らしい作品を数多く残しています。その偉業を称えるとともにご冥福をお祈りいたします。