デビッド・リンチ(享年78歳)

1月16日、逝去。カルト的な人気を博す映画『イレイザーヘッド』で知られる映画監督。

1980年の『エレファント・マン』でアカデミー賞作品賞にノミネート、1990年からはドラマ『ツインピークス』を手掛け世界的なヒットとなる。カンヌ映画祭では『ワイルド・アット・ハート』でパルムドール、『マルホランド・ドライブ』で監督賞を受賞している。

少年時より重ねた喫煙により肺気腫を患い、晩年は家を出ることさえ困難な状態であり、ロサンゼルス一帯を襲った山火事の避難先である娘の家で亡くなった。

ジョン・サイクス(享年65歳)

1月20日(実際は2024年12月下旬)逝去。ハードロック・ヘヴィメタル界で活躍した英国出身のギタリスト。

ヘヴィでモダンなギタープレイと類まれなソングライティング能力で、在籍したバンドに大きな変化をもたらし商業的な成功へと導く。タイガース・オブ・パンタン、シン・リジィを経て1983年にホワイトスネイクに加入。全米2位、800万枚の大ヒットとなる『サーペンス・アルバス〈白蛇の紋章〉』を完成させるも、発売前に解雇された。以降は自身のバンド、ブルー・マーダーやシン・リジィを再結成させるなど精力的に活動した。

森永卓郎(享年67歳)

1月28日、逝去。日本専売公社、経済企画庁を経て三和総合研究所などに勤務。

1990年代からは経済アナリスト、獨協大学経済学部教授として、経済学の専門知識をわかりやすく解説し、テレビや著書を通じて多くの人々から支持される。またミニカーをはじめフィギュアや景品などのコレクターとしても有名であった。

つば九郎「中の人」(享年51歳)

2月17日、逝去。もともと神宮球場で警備や清掃のアルバイトをしており、ものおじしない性格が球団に評価され、1994年につば九郎の担当者となる。

フリップ芸も冴えわたるユーモアと愛のある毒舌、ファンや選手を盛り上げるパフォーマンス、チアリーダーや他球団のマスコットとの当意即妙な絡み、選手へのエールや労いを見せる温かくて優しい一面など、その多面的な魅力で球団マスコットの枠を超えた存在であった。

ジーン・ハックマン(享年95歳)

2月18日、逝去。海兵隊員、ジャーナリストなど職を転々とした後、30歳から俳優を志した遅咲きの名優。

アクターズ・スタジオでダスティン・ホフマンとともに演技を学び、37歳のときに出演した『俺たちに明日はない』で脚光を浴びると、1971年の『フレンチ・コネクション』でアカデミー主演男優賞を受賞。病を克服した後、1992年に出演したクリント・イーストウッド監督『許されざる者』ではアカデミー助演男優賞を獲得した。

みのもんた(享年80歳)

3月1日、逝去。文化放送のアナウンサーとして深夜ラジオで人気となり、退社後に担当した『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』でのアドリブ満載のコミカルなナレーションが話題となる。

以降は、フリーアナウンサーとして『午後は〇〇おもいッきりテレビ』や『みのもんたの朝ズバッ!』など数々の情報番組の司会を務め、2006年には「一週間で最も長時間、テレビの生番組に出演する司会者」としてギネス世界記録にも認定された。

いしだあゆみ(享年76歳)

3月11日、逝去。フィギュアスケート選手から歌手を経て、数々の映画やドラマで活躍した女優。

1968年の『ブルー・ライト・ヨコハマ』が大ヒットし歌手として国民的な人気を得ると、その後は女優業に主軸を移し『青春の門 自立篇』『駅 STATION』『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』などで高い評価を得る。

ドラマ『北の国から』では、主人公黒板五郎の離婚した妻を演じる。富良野から東京に戻る際、列車を追いかける蛍に車窓越しから全身でこたえるシーンは多くの涙を誘った。

大宮エリー(享年49歳)

4月23日、逝去。東京大学薬学部から電通に入り、1996年に広末涼子の鮮烈な透明感が話題となったドコモポケベルのCMに携わる。

独立後はショートムービー『海でのはなし。』をヒットさせ、人気エッセイ『生きるコント』の連載、「サラリーマンNEO」や「三毛猫ホームズの推理」などのドラマ脚本を手掛ける。その他、舞台演出、画家、オールナイトニッポンのパーソナリティを務めるなどマルチに活躍した。

長嶋茂雄(享年89歳)

6月3日、逝去。千葉県出身、読売ジャイアンツ一筋「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれたプロ野球選手。

立教大学からジャイアンツに入団すると、1958年に新人王を獲得したほか、MVP5回、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回など多数のタイトルを獲得。引退後は監督としてリーグ優勝5回、日本一2回を達成し、2001年に終身名誉監督に就任。2013年には国民栄誉賞を受賞した。

ヘルメットが吹き飛ぶほどの豪快な空振り三振や、守備位置を逸脱してまで捕球するアグレッシブさ、初の天覧試合でサヨナラホームランを打つスター性など、その魅せるプレーはいつでも昭和の少年たちの憧れであり続けた。

ブライアン・ウィルソン(享年82歳)

6月11日、逝去。1961年に兄弟らと共にザ・ビーチ・ボーイズを結成し、その天才的な音楽センスで数々のヒット曲を世に送り出した。

『サーフィン・U.S.A.』などポップな楽曲で人気を博すと、1966年に傑作コンセプトアルバム『ペット・サウンズ』を発表。従来の陽気なイメージとは異なり、ブライアンのより個人的で内面的なテーマを探求した異色作となる。美しいコーラスワークに様々な楽器や日常的な音を重ねたコラージュのようなサウンドが注目され、その芸術性の高さからロック史に残る名盤として高く評価されている。

ジェームス三木(享年91歳)

6月14日、逝去。俳優座養成所、13年間の歌手活動を経て、30歳で小説家に転身し脚本家としても活動を始める。

1985年に沢口靖子の出世作となったNHK連続テレビ小説『澪つくし』の脚本を担当し、最高視聴率55.3%を記録する大ヒットとなる。1987年には渡辺謙主演の大河ドラマ『独眼竜政宗』が大河史上最高の視聴率を獲得するなど一時代を築く。

なお、ジェームス三木というペンネームは「税務署行き」をもじったもの、小津安二郎の別名(脚本時)「ゼームス槇」にあやかった等、様々な説がある。

ラロ・シフリン(享年93歳)

6月26日、逝去。アルゼンチン出身、映画『燃えよドラゴン』『ダーティハリー』、テレビシリーズ『スパイ大作戦(ミッション:インポッシブル)』など数々のテーマ曲を手掛けた作曲家。

ジャズピアニストとしてディジー・ガレスピーのバンド等でキャリアを積んだ後に、1960年代から映画音楽の分野へと進む。ジャズとシンフォニックなオーケストラ音楽を融合させるなど、従来の映画音楽の枠を超えた革新的な作品を世に送り出した。

渋谷陽一(享年74歳)

7月14日、逝去。音楽雑誌『rockin'on』や『ROCKIN'ON JAPAN』を創刊した音楽評論家。

文学的な手法を取り入れた批評で日本のロック評論に大きな影響を与える。1973年からラジオDJを務め英米のロックを積極的に紹介。2000年からは野外音楽フェス(「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」「COUNTDOWN JAPAN」など)を立ち上げ、総合プロデューサーとしてその運営体制を確立した。

オジー・オズボーン(享年76歳)

7月22日、逝去。英国バーミンガム出身、ヘヴィメタルのパイオニアであるブラック・サバスのボーカリスト。

1970年2月13日金曜日に『BLACK SABBATH(邦題:黒い安息日)』でデビュー。その重くダークなサウンドは後のメタルバンドに多大な影響を与えた。1979年にバンドを脱退しソロ活動を開始。ランディ・ローズ、ジェイク・E・リー、ザック・ワイルドといった才能あるギターヒーローを発掘した。2000年代には、妻や子供たちと出演したリアリティ番組『オズボーンズ』が世界的な話題となる。

酒や薬物に翻弄され続けた人生でもあり、生きた鳩やコウモリを食いちぎるなど強烈なエピソードは枚挙に暇がない。

チャック・マンジョーネ(享年84歳)

7月22日、逝去。ニューヨーク生まれ、ジャズ・フュージョン界で大きな功績を残したフリューゲルホーン/トランペット奏者。

アート・ブレイキーのバンドに加入し実績を残すと、トランペットからフリューゲルホーンへと持ち替えフュージョンの世界へ転身。『フィール・ソー・グッド』が全米ヒットチャートでトップ5に入り一躍スターダムへと上り詰める。1980年にはレークプラシッドオリンピックにちなんで『栄光をめざして』を作曲しヒット。

グラミー賞は1975年『哀しみのベラヴィア』、1978年『サンチェスの子供たち』で2度受賞している。

ハルク・ホーガン(享年71歳)

7月24日、逝去。1980年代から90年代にかけて世界的な人気を誇ったプロレスラー。

超人ハルクを彷彿させるボディビルダー然とした肉体、口ひげ、赤いバンダナを特徴としてWWEの世界的認知度の向上に貢献した。日本マット界では新日本プロレスを主戦場に活躍。フィニッシュ技「アックスボンバー」や「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズで大人気となる。

1983年6月2日、蔵前国技館で行われたアントニオ猪木との試合で、猪木がアックスボンバーによって失神し、舌が飛び出した状態になった「舌出し失神事件」が発生。通常はプロレスを扱わない一般紙まで取り上げるほどの大騒ぎとなった。

釜本邦茂(享年81歳)

8月10日、逝去。サッカー日本代表のフォワードとして活躍した日本サッカー界のレジェンド。

Jリーグ発足以前、日本サッカーリーグで通算202得点(歴代1位)。日本代表として国際Aマッチ76試合75得点、1968年メキシコオリンピックではアジア人初の得点王となった。

日本人離れした強靭なフィジカルを擁し、右足、左足、ヘッドのどこからでも点を獲れる万能型であったが、特に右足から放たれる強力なシュートが特徴。1試合で2人のキーパーを負傷させたこともある。

なお日本代表通算75得点は、歴代得点ランキングでいまだに破られることのない不滅の大記録として日本サッカー史に刻み込まれている。

橋幸夫(享年82歳)

9月4日、逝去。舟木一夫、西郷輝彦とともに「御三家」として人気を博した日本の歌手。

ボクシングに心酔する悪童であったが母親の勧めで歌謡教室に通う。1960年に『潮来笠』で日本レコード大賞新人賞を受賞すると、1962年に吉永小百合とのデュエット曲『いつでも夢を』、1966年に『霧氷』でそれぞれ日本レコード大賞を受賞。

歌手活動以外では、介助犬サポート大使などの社会活動や、認知症の実母の介護生活を綴った『お母さんは宇宙人』を出版し話題となった。

ロバート・レッドフォード(享年89歳)

9月16日、逝去。ハリウッドきっての美男として数多くの映画に出演したカリフォルニア州出身の俳優。

1969年にポール・ニューマンと共演した『明日に向かって撃て!』でブレイクし一躍スターとなる。再びニューマンと組んだ1973年の『スティング』でアカデミー賞主演男優賞にノミネート。1980年の監督デビュー作『普通の人々』ではアカデミー作品賞と監督賞を受賞しハリウッドに確かな足跡を残す。

若手映画人の育成と支援を目的にインディペンデント映画の祭典「サンダンス映画祭」を主催し、タランティーノやジム・ジャームッシュなど後に活躍する多くの映画監督の登竜門となる。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『ソウ』もこの映画祭をきっかけとして知名度を上げた。

ダイアン・キートン(享年79歳)

10月11日、逝去。ハリウッドにおける新たなヒロイン像を確立し多くの女性に影響を与えた俳優。

ブロードウェイでキャリアを積むと、映画『ゴッドファーザー』でアル・パチーノの恋人役を演じブレイク。公私にわたるパートナーとなるウディ・アレン監督の『アニー・ホール』でアカデミー主演女優賞を受賞した。

『アニー・ホール』で演じた神経質で欠点もあるが愛すべきヒロイン像は、従来のヒロイン像を書き換え多くの女性に影響を与えた。そのマニッシュなファッションも「アニー・ホール・ルック」として大ブームを巻き起こした。

ディアンジェロ(享年51歳)

10月14日、逝去。ネオ・ソウルのパイオニアとして知られるアメリカのシンガーソングライター。

1995年に『Brown Sugar』でデビュー。70年代のソウルにヒップホップの要素を取り入れた作風でネオ・ソウル・ムーブメントの先駆けとなる。2000年リリースの『Voodoo』がBillboard 200で初登場1位を獲得。以降、個人的な問題から長期の活動休止を経て、2014年の『Black Messiah』で14年ぶりにカムバックを果たす。

合計4つのグラミー賞を受賞し、わずか3枚のスタジオアルバムで音楽界に計り知れない影響を与え「R&B界で最も独創的な新しい声」の一人として記憶されている。

エース・フレーリー(享年74歳)

10月17日、逝去。ロックバンドKISSのリードギタリストで創設メンバーのひとり。

バンドの象徴でもある「スペースマン」キャラとして、人気曲『Cold Gin』をはじめとした初期KISSのサウンド形成に大きく貢献し、その技巧極まるメロディアスなプレーで後進のギタリストにも影響を与えた。

特にバンドの大ブレイクを決定づけた1975年のライブ盤『Alive!』におけるギタープレイは、数多くのギタリストからリスペクトされ伝説として語り継がれている。

ビョルン・アンドレセン(享年70歳)

10月25日、逝去。巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』の美少年タッジオ役で知られるスウェーデン出身の俳優。

両親からの愛情を得られない境遇から祖母の手により映画界へと足を踏み入れ、1971年の『ベニスに死す』でその美貌が世界に知られることになる。その後は過酷な労働環境と身勝手な大人による搾取の対象となり映画界を離れるも、やがて最愛の我が子を亡くす悲劇にあう。

その不遇で壮絶な半生から依存症と向き合う日々を乗り越え、2019年の衝撃作『ミッドサマー』に出演。白髪と長い白髭の老人がビョルン・アンドレセンであったことは少なからず世界を動揺させた。

仲代達矢(享年92歳)

11月8日、逝去。舞台と映画を中心に70年以上にわたり活躍した日本を代表する俳優。

俳優座養成所時代の1954年、映画『七人の侍』でセリフなしの浪人役として映画デビュー。黒澤明からは歩くだけのシーンでNGを連発され半日がかりの撮影となる。1959年から続く小林正樹監督『人間の條件』で主演を務め、その天才的な演技が花を開き地位を確立。

あらためて黒澤明から三船敏郎に対抗できる敵役俳優として『用心棒』のオファーを受け出演。その後『椿三十郎』や『天国と地獄』でも起用されることになる。カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した1980年『影武者』では、黒澤明との確執で降板した勝新太郎の代役として急遽主役を務めた。

1975年からは俳優養成のための私塾「無名塾」を設立。妻の宮崎恭子に演出を任せ自身は演技に集中、多くのシェイクスピア作品に主演した。無名塾からは、役所広司、真木よう子、滝藤賢一など多くの俳優が輩出された。

原田眞人(享年76歳)

12月8日、逝去。映画評論家を経て、1979年に『さらば映画の友よ インディアンサマー』で監督デビュー。

90年代に役所広司主演『KAMIKAZE TAXI』、渋谷で援助交際をする少女たちを描いた『バウンス ko GALS』等で注目を浴びる。2008年には横山秀夫のベストセラー小説を映画化した『クライマーズ・ハイ』で日本アカデミー賞の10部門で優秀賞となる。

ロンドンやロサンゼルスを拠点としていた時期もあり、『スター・ウォーズ』シリーズの日本語版吹替版監修、『フルメタル・ジャケット』、『グッドモーニング・ベトナム』の日本語字幕も担当した。

ロブ・ライナー(享年78歳)

12月14日、逝去。名作『スタンド・バイ・ミー』で知られるニューヨーク出身の映画監督。

著名な監督カール・ライナーを父に持ち、子役・俳優・テレビ演出家を経て、1984年『スパイナル・タップ』で監督デビュー。『スタンド・バイ・ミー』『恋人たちの予感』『ミザリー』『ア・フュー・グッドメン』など数々のヒット作・名作を生み出し、俳優としても活躍、コメディからドラマ、ホラーまで幅広いジャンルで成功を収めた。

尾崎将司(享年78歳)

12月23日、逝去。ジャンボ尾崎の別名で日本ゴルフ界に君臨し続けたレジェンド。

徳島県出身で高校時代は甲子園優勝投手。プロ野球を経て21歳でゴルフに転向し、70年にプロ入りした。71年に日本プロで初優勝。73年に初代賞金王となり、通算12回獲得。豪快なプレーから“ジャンボ”の愛称で親しまれ、青木功、中嶋常幸とAON時代を築いた。

日本ツアー94勝、生涯113勝を誇り、55歳で最年長優勝も達成。引退後は育成に尽力し、笹生優花、西郷真央ら多くの名選手を育て、日本ゴルフ界に大きな足跡を残した。

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